ある犬の話をしよう。
犬はある日、病気になり、目を失った。
その数年後、余命宣告を受けた。
長くても数ヶ月だろうと言われていた命の炎は約3年ほど燃え続けた。
犬
その犬は、とにかく人懐っこく、顔をとてつもない勢いで舐める。
目を失ってからも、匂いで顔の位置を探し、尻尾を横に振り、とにかく舐める。
舐められる側からしたら、臭くてしょうがない。
1人で生活しているおばあちゃんと住んでいるからか、愛を周りに振り撒く犬だった。
おばあちゃん
僕のおばあちゃんは、死ぬ話をよくする。
「おばあちゃんが死んだら…」「おばあちゃんが死んだ後…」
そんなナイーブな話を聞きたくない孫の僕は、当たり障りのない具合に話を受け流す。
犬が病気になってからは、少し鬱気味で、弱音が溜息と共に溢れていた。
印象に残っていたのは、「犬が死んだら、私も…」という文章だ。
犬とおばあちゃんは、持ちつ持たれつの仲だった。
この話を残す理由
僕がこの話をこのブログに残すのは、命の強さに感銘を受けたからだ。
文章では伝わらない。弱々しい。
生まれたばかりの赤ちゃんのように、触ることを躊躇してしまう。
触ると肋の骨がむき出しになる程、痩せ細り、呼吸も浅く、目がないため、触るとビクッと驚く。
しかし、僕にはどんな犬や人間よりも、力強く見えた。
なぜ、そこまで一生懸命に生きるのか。
意志の強さ
頭のいい犬だった。人間の言葉を理解できた。
そして、おばあちゃんを理解していた。
目の前にしてみないとわからない。あの強い意志が宿った呼吸。
一つ一つの呼吸に生きるという意志がある。少しでも長く生きようとしていた。
風に耐える、命の名残のような火は数年間、消えることはなかった。
忘れられない生き様
僕にとっては、ものすごいインパクトが残った最期だった。
あんなにも強い意志で、命の炎を絶やさまいと、生きる姿は僕はみたことがなかった。
だからこうやって、ブログに残すのだ。
命というのはこういうものだ。
僕たちは学ばないといけない。生きるということを。

